氷の双璧時代
このブログはふと思い出したときに書いているから、読んで欲しい時もあれば、読んで欲しくない時もある。
つまり、書きたいだけだからご自由に、ということだ。
さて、今回はフィギュアスケート第二弾。スピナマラダを入れれば3回になるが、あれは除外しよう。
スポーツを観る人というのは、大抵ドラマチックで、心を動かす何かを求めていると思う。例えば、賛否両論ではあるが、先日行われたリオデジャネイロオリンピック世界最終予選、女子大会でのタイ対日本。日本の奇跡的な勝利に感動した人は少なくないだろう。
ああいった種類の「奇跡的で、感動的な逆転勝ち」のみが、スポーツの感動や興奮を呼び起こす成分ではない。
それでは他に何があるか?
少年漫画ではよく見受けられる「ライバル」だ。一人悠々と勝ち進んでいくのではなくて、どちらが勝つのかわからないようなギリギリの戦いに手に汗握るのも、一種のスポーツの楽しみであると思う。
そんな熱いライバル勝負は、フィギュアスケートのリンクで、遥か昔から続けられ来た。ボイタノとオーサー、エルドリッジとストイコ、など熱い頂上決戦が繰り広げられたのだが、その中で最も熱い頂上決戦を繰り広げたのが
この2人のすごみは何から何まで対局しているということ。そして、両者がスケート界の最高峰に上り詰めているということだ。
よく、この時代のこの人が今この天才と戦ったらどうなるだろう、という想像をする人がいるが、それが実際に起こったようなものだ。実際の人物で例えるとその専門からグーパンチが飛んできそうなのでやめておく。
とにかく百聞は一見に如かず。この2人がどれだけすごかったかを、独断と偏見で選んだ動画で説明していこう。
【やけくそカルメン】プルシェンコ 2002 オリンピック FS Plushenko
その前に「なぜやけくそ?」と思う人がいるかもしれないが、その理由も後々わかる。彼の技術・芸術スキルは本当に群を抜いている。ロシア(ソ連)ならではのバレエのような美しい動きが特徴で、高い技術(4-3-3など)・美しい芸術を求めるロシア人が多くのファンだった。
このプログラムの途中では「4トウループ-3トウループ-3ループ」、「3アクセル-ハーフループ-3フリップ」など、史上初のジャンプを見せている。ちなみに「4-3-3」はいまだに世界で達成した人数は片手で数えられるほどだ。
しかもこの2年後、当時の採点方式の芸術点で満点を取った。かの有名な「ニジンスキー*1に捧ぐ」である。
2002長野ワールド男子シングル アレクセイ・ヤグディン フリー 仮面の男
オリンピックのフリーの方が土俵としては良かったかもしれないが、同じプログラムだしこっちの方が土地的問題*2でキレがあるので。
彼のプログラムは、パフォーマンス力がある。このプログラムも映画の曲を使用しているが、彼はほかにもたくさんの映画の曲を使用している。つまりは入り込みやすい。SPではステップ1つ(ストレートラインで足さばきが素晴らしい)で客を沸かせ、他の世界選手権では同じステップ(別のプログラム)でカナダ中を発狂させた。
では技術は?と言えば、プルシェンコと肩を並べる。彼も「4-3-2」を飛んでいるし、お得意の3アクセルは、世界一と呼ばれ続けた。彼の3アクセルは本当によく飛ぶので、見分けやすい。ただ、プルシェンコが男子で初めてその柔らかさでビールマンスピンを見せていたのに対し、ヤグディンは体が硬かった。股関節疾患を持っていたので仕方がないが。
彼らのプログラム1つ比べただけでこれほどの差がある。プルシェンコはかなり女性的な動きで、当時は「中性的」とよく言われていた。方やヤグディンはかなり重厚感ある男らしいプログラムを見せる。この面でも彼らはかなり対極的であったと言える。
この対極さはなんとコーチにまで…。まさに恐ロシア。
彼らは当初、同じコーチアレクセイ・ミ―シンであった。2人とも恵まれた家庭で育ったとは言えない。
そんな彼らの亀裂はもうここから始まっていた。ミ―シンはプルシェンコの才能に目をつけ、彼を贔屓した。ヤグディンとの関係の悪化は、前のヤグディン史の方で触れているので詳しくはそちらへ行って、どうぞ。*3
ヤグディンが次のコーチに選んだのは、ミ―シンの選手時代、ライバルであったタチアナ・タラソワであった。一応言っておくと、ヤグディンは決してタラソワがミツンのライバルだったから選だわけではない。諸々の状況を踏まえてだ。
そして当時は見事に冷戦時代である。"ロシア型"のプルシェンコと"アメリカ・カナダ型"のヤグディン。彼らのファンはお互いがヤグの方が、プルの方がと言い張っていた。まったく不毛ではあるが、これぞスポーツ。結局どちらも好みの問題だ。
ヤグディン・プルシェンコは何度となく戦い、お互い相手に勝つことしか考えていなかった。どれだけ素晴らしい結果を残しても、結局相手に勝てなかったら納得しない。世界2位だろうが、奴に負けたことの方がショック。そういうプライドのぶつかり合いであった。GPFでは、「スーパーファイナル」なるものが存在し、2人は接戦を繰り広げていた。
こんな冬の双璧時代、ほかにも様々な魅力的かつ人間じゃないような選手もいた。ティモシー・ゲーブル、本田武史…挙げてみたらキリがない。
そんな時期に行われた大会が、「ソルトレークシティーオリンピック」である。
プルシェンコとヤグディンの頂上決戦。一体どちらが金メダルを首に下げるのか、世界中が注目していた。
ここで思い出してほしいのがプルシェンコの「やけくそカルメン」である。彼はオリンピック直前にプログラムを変えたこともあり、過度の練習で右足首を怪我していた。SPでは転倒し、2位にもたどり着けなかったのだ。プルシェンコが転倒した時、ヤグディンがどんなリアクションを取ったかは、有名な話だ。ぜひ彼の自伝を
そして、悲しくもこの頂上決戦で2人の時代は終わりを迎える。
ヤグディンは疾患が発覚し、止む無く引退。4年後、トリノで金メダルを首に下げたプルシェンコの表情は何とも言えないものだ。
そしてこの時、1人の男の子がソルトレークの2人の最終決戦を見守っていた。
当時7歳の彼は、両者の演技に感銘を受ける。プルシェンコに心酔し、髪型まで似せて、ビールマンスピンにも挑戦した。
そんなオリンピックの12年後、にこやかな顔で金メダルを持つことになる彼は、今もこの時代を大切に氷を滑っている。
今では彼も、プルシェンコにとってのヒーローになった。
最後に、アレクセイ・コンスタンティーノヴィチ・ヤグディン、エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコに最大の敬意を表し、本稿を終えたいと思う。